「わたしの穴 21世紀の瘡蓋」
My Hole: Scab of the 21st Century
藤井博 Hiroshi Fujii
Curated by:石井友人 Tomohito Ishii
高石晃 Akira Takaishi
会期:2018年3月10日(土)― 4 月7日(土)
「わたしの穴 21世紀の瘡蓋」
藤井博、石井友人・高石晃は「わたしの穴 21世紀の瘡蓋」を、Space23℃にて開催いたします。作品出品は藤井博、展覧会キュレーションは石井友人・高石晃によるものです。
1942年生まれの藤井博は、1970年に東京都にて作家活動を開始しました。ギャラリー内に生肉と鉛を併置する「波動1」でキャリアをスタートした藤井は、同年に「スペース戸塚 ’70 」にて、榎倉康二・高山登・羽生真と共に作品・ハプニングを発表し、「もの」による知覚や認識を撹乱する作家としての独自のスタンスを獲得します。
藤井はその制作スタンスにより、同時代的に活動を展開した「もの派」の周辺的な作家として位置付けられもしますが、その長年の活動を日本美術界により積極的に歴史化されることはなく、また、欧米のアート・オーソリティーによる第三世界を包摂した歴史事実の再構築、「複数の近代」への眼差しからも外れています。
従って、本展では歴史化され固定された作家の活動意義を問い直すことを主眼に置くことはせず、過去から現在に向け、伸張しつつ彷徨える藤井作品が、現在だからこそわたしたちに作用してしまう、その圧倒的な必然性にこそ注目します。
本展のキュレーションを担当した石井友人と高石晃は、それぞれ1981年・1985年生まれの美術作家です。2015年自主企画展「わたしの穴 美術の穴」において「スペース戸塚 ’70」を検証対象とし、中でも同展にて藤井らにより大地に掘られた「穴」という空間に関心を寄せ、何故彼らが「穴」を掘ったのか、時代背景を探りながらその表現行為の根源的意味を考えました。
本展タイトルの一部として採用された「わたしの穴」とは、藤井により大地(空間・社会)に穿たれた「穴」であり、同時に藤井自身に内在する「穴」と見立てることもできます。そのような「穴」は、わたしたち人間が構造的に持たざるを得ない存在的根拠、その消え去りの「裂傷」の経験として、わたしたちの前に度々再起的に立ち現れることでしょう。
そして、それは藤井が「穴」を穿った1970年という大きな時代の転換点における、わたしたちの社会が抱え持つ「裂傷」と捉えることも可能である、と本キュレーションにおいては考えます。
「裂傷」は生な状態として在るうちは、わたしたちはそれについて語る術をもちません。剥き出しの「裂傷」が自己治癒されていく過程で「瘡蓋」となった時、その実体を固まりとして認識することが出来るでしょう。しかし、やがて「瘡蓋」はわたしたちの身体からは、異物として外部に排出されるという帰結を迎えます。
それは、わたしたちの社会が自らに負った「裂傷」を、「瘡蓋」として一時的に固定化したのちに排除(透明化)し、忘却を繰り返すという歴史的反復からも理解されるのではないでしょうか。
本展における「21世紀の瘡蓋」とはそのような藤井による「裂傷」的経験を、現在のわたしたち(社会)がいかにして「わたしの穴」として認識しうるのかという問いが込められています。
展覧会場では藤井の最初期作である、69年《無題》( 生肉、ロープ、ビニール袋、ガラス鏡、床その他)の再演作品、70年「スペース戸塚
’70」における《波動A》(地、生肉)の記録写真、73年のパフォーマンス映像《肉・街・路》、90年のレリーフ状平面作品《ためられる時間・空間質》(合板、塗料、アクリル絵ノ具、布、釘)など、69年~90年の作品がキュレーションに併せ展示されます。これらの作品において度々使用されている「生肉」やガーゼのような「布」、そして合板を切り刻むかのような表現行為性は、藤井による「裂傷」や「瘡蓋」の現れとして解釈できるでしょう。
藤井作品は、わたしたち自身の内に潜む構造的切断へと意識を接近させることを強います。そしてまた「わたしの穴 21世紀の瘡蓋」としての本展は、わたしたちが現実としての事物に、今に至るまで出会えなかったことを、事後として、静謐に訴えることでしょう。
石井友人